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くすの木仏(比曽)
さかさ竹(鉾立)
ぬすっととお地蔵さん(岩壺)
ほととぎすのなきごえ(芦原)
ひらはたの石塚(下渕)
おいの池の話(佐名伝)

 

欽明天皇のころ、難波の海辺に、一本のふしぎな木がただよっていた。その木は、まるで太陽のように、光りかがやいていたというのである。天皇は、そのうわさをきかれると、すぐに、けらいの一人にいいつけて、それをしらべさせた。けらいは、海にはいってそれをみると、
光っていたのはくすの木であることにまちがいはなかったので、
そのことを天皇に報告した。

そんなに光かがやく木はめずらしいので、
天皇は漁師にいいつけてそれを拾いあげ、仏像に命じて二つの仏像をきざませた。
すばらしくりっぱな、光かがやく仏像ができあがったので、その一体を聖徳太子が
建てた比曽の世尊寺に安置させた。 これがわが国における仏像彫刻の最初の
仏であり、しかもつねにまばゆいばかりに光をはなっていたので、
それにちなんで世尊寺のことを、現光寺ともよぶようになったということである。

 

鉾立の清九郎さんといえば、日本国中に名前のきこえた、たいへん名高い妙好人(信心深い人)で、ありがたい話が、いろいろと伝えられている。 本願寺のおっぱんさん(御仏飯)をたくたきぎをせおって、京都まで死ぬまではこびつづけたというのもそのひとつだが、あるとき木津川までくると、大水がでていて川を渡ることができなかった。ところが、清九郎さんが念仏をとなえながら川をわたろうとすると、ふしぎなことに清九郎さんの歩くところだけ水が二つにわれて道をつくり、難なく向う岸へつくことができたということなど、だれにでも知られている話である。ところでそのときいつも使っていた竹の杖だが、清九郎さんがなくなってからのち、それを墓の上にたてておくと、いつのまにか新芽がでて育っていった。そのとき杖は、さかさにたてられていたので、その枝はみんな下向きにでていたということである。今も高市郡丹生谷の因光寺というお寺の境内には、みんな下向きになった枝をしげらせているこの竹の一むらが、やぶになっているという。

 
むかしあるところに、ひとりのぬすっとがおった。ある晩、人の家へどろぼうにはいって、ぬすみだしてきた金を、村のお寺のこんもりしげった森のなかにある、お地蔵さんのところへかくした。 かくしてから、ひょいとお地蔵さんの顔をみると、いつもは、にこにこしたやさしい顔をしているのに、おそろしい顔をして、ぬすっとをにらみつけていた。ぬすっとはびっくりして、それでもおどかすように、「だれにも、かくしたことをしゃべるなよ。」と、いった。 すると、お地蔵さんは、「わしはしゃべらんが、お前こそしゃべるなよ。」と、いった。 ものなどいうはずのない、お地蔵さんのこえが、たしかにはっきりときこえてきたので、ぬすっとは気味がわるくなり、いそいでその場をたちさった。家へかえってねたが、お地蔵さんのことが気になって、どうしてもねむられなかった。

とうとう一晩まんじりともしないで、夜のあけるのをまつと、いそいでぬすんだ家へいって、自分のしたことを白状した。なんだか、そうしないではいられなかったのである。
そしてそこの家の人とつれだって、
金のかくしておいたお地蔵さんのところへきて、そっとお地蔵さんの顔をみると、
お地蔵さんは、いつものように、にこにこしたやさしい顔をしていたので、
ぬすっとはほっと安心した。そんなことがあってからぬすっとは、
ぴたりとぬすっとをやめて、とてもまじめな人間になったということである。
 
あるところにな、ほととぎすの兄弟がおってんと。ところがふとしたことから、兄の方がな、重い病気にかかって、ねこんでしもたんやって。そいで兄さん思いの弟のほととぎすは、えらい心配して、どないしてはよようなってもらおうと思うていたところが、やまのいもを食べさせたらええときいたんで、さっそく山へいってほってきて、ええところばっかり食べさせたそうな。なんべんもそないして食べさせておったら、それがきいたんか、兄のほととぎすは、やっと重い病気がなおったそうな。

病気がなおると、兄のほととぎすは、「おれの病気のあいだ、弟はやまのいものうまいとこばっかり食べさせてくれよったが、ひょっとしたらもっとうまいとこがあって、あいつはそれを食べとったもんにちがいない。いったい、なに食べてよったものか、みたいもんや。」 と、思うてな、よくねむってい弟をひっとらえて、殺してしもたんやって。ひどいことをする兄さんやな。鬼みたいなやっちゃ。

それからな、その兄のほととぎすは、弟の腹をさいてしらべてみたんやって。そしたら弟の腹のなかからでてきたもんは、もっとうまいところどころか、やまのいものひげとしっぽのまずいところばっかりやったそうな。 それをみた鬼みたいな兄のほととぎすも、「ああ、そやったのか。お前はおれの病気をなおしてくれようとして、こんなまずいもんをたべて、しんぼうしとってくれたんか。そやのにうたごうて、お前を殺したりして、すまんすまん。」ちゅうてな、なみだをこぼしてあやまったそうな。おそくさいわ。なんぼあやまっても、心のやさしい死んだ弟は、もうかえってきやせんわ。 さあ、そんなことがあってからや。兄のほととぎすは、「ほっちょん(包丁)かけた、おとうとこいし、おとうとこいし。」と、血をはくような思いをこめて、夜どおしなくようになってんと。どや、ほととぎすのなきごえを、きいたことがあるやろが。ようきいてみい。そないいうてないとるようにきこえるにちがいあらへん。
 
下渕の北方の丘陵にひらはたというところがあり、その峠のいただきに、高さ約五メートル、周囲約二〇メートルばかりの大きな石塚があり、通称これを「ひらはたの石塚」といっている。ちいさいのでこぶしぐらい、大きいので頭ぐらいの無数の石塊を、ピラミッド形につみあげ、その頂上に、もみの小木が一本植えられている。 この道は、吉野口、今木方面から、下渕、下市へ越えてくる旧街道で、大峯山におまいりをする修験道の行者たちは、千石橋を渡って下市から洞川へはいるか、または吉野川沿いにさかのぼり、柳ノ渡をわたって吉野山を経て山上へいくかのいずれかの道をとったが、いずれもこの峠を越えたので、むかしはかなりにぎわい、頂上には茶屋もあった。ここまでくると、大台、大峯の諸山が一望のうちに眺められるので、行者たちはここを第一の行場として、身を正し旅の安全を祈願した。

そしてこのあたりは、岩塊が多くて歩きにくい山道であったところから、いつのころからか行者たちは、その石ころを拾ってそれを頂上へはこんで石塚をつくることが、是非しなければならない信仰行事として習慣化されるようになって、今のような石塚がつくられたというわけである。交通機関の変遷によって、今はこの道を通る人のすがたはまったく絶え、生いしげる雑草に埋もれてしまっているありさまであるが、それだけに、そういうなかに残されている信仰遺跡をみると、よけいにゆかしく先祖たちの心が偲ばれる。なお、かつてその石を、持ちかえって家の礎石にした者がいたが、その人はたちまち重症にかかったばかりでなく、家運も衰頽したというようないい伝えがあり、今にだれもそれにさわろうともしない。
 
いつのころかははっきりせんが、ずっとずっとむかしのことや。村の百姓嘉兵衛に、おいのという気立のやさしい、きれいな娘がおったそうじゃ。はやく母親を失ってから、一家の女仕事は一手にひきうけ、からだの弱い嘉兵衛をたすけて、田畑の仕事の手助けもするちゅしっかり者でのう、近在近郷から、嫁にほしいというてくるものも、いっぱいあったそうじゃが、おいのは、まだ早い早いというて、ことわりつづけてきたそうな。ところが、ある年のくれのゆうがたのことじゃ。おいのは、父の用事で近くの町までいってきて、とっぷりくれてかえってきたのやと。そして、村の入口にまつってある地蔵さんの前まで帰ってくると、そこにうずくまって痛がっているひとりの若い男をみつけた。近づいてみると、すみぞめの衣を着た僧で、にわかな腹痛で、苦しんどった。

そこからおいのの家は、そんなに遠くなかったので、おいのはその若い僧をせおうてうちへ帰っていった。それから父の嘉兵衛と一しょに、薬をのませてやったり、腹をおさえてやったり、いろいろと手をつくしてやったそうじゃが、その甲斐あって、その夜おそく若い僧の病気は、うそみたいにようなってんと。 「かたじけのうございます」 と、若い僧は、眼に涙さえ浮かべながらいうた。 「わたしは、南都興福寺で学問をつづけている俊海という者、いささか所要あって吉野山に立ちより、ここから高野にでようとしての道すがらの急病、おかげさまで、一命をすくっていただきました。この御恩は、生涯決して忘れません。が今は、修行の身、いつの日にか必ずおむくいいたします。」おいのはうすぐらいあんどんの灯のもとで、初めて若い僧のひきしまった顔をみて、生まれてはじめてのはげしい恋心をもち、その晩一晩まんじりとも眠れなかったのじゃと。

あくる朝早く俊海は、いくたびも礼をのべ別れをおしんで修行の旅に出立してしもうたが、いったんおいのの心についた火は、どうにも消すことができず、いよいよ燃え立つばかりだったそうな。その日からおいのの様子が、みんながびっくりするほどかわってしまった。あかるかった顔がくらく思いにふけり、いつも川のほとりにあるひょうたん池のかたわらに立って、ぼんやりとしていたり、さめざめと泣いていたりしたのじゃそうな。嘉兵衛はそれがなによりも心配だったが、どないしようもない。その年もくれて、新しい年の正月も終わりに近い雪のふりしきる日、南都興福寺の猿沢池畔の坂道を、ふかいまんじゅう笠をかむったみすぼらしい若い娘が、のぼっていった。二月ばかりのうちに、狂うような恋心にすっかりやせたおいのである。娘心のひとすじに俊海を興福寺にたずねてきたわけよ。山坊を訪ねて面会を求めると、俊海はおった。命の恩人なのでよろこんで迎えてくれたが、おいのは、ここでは話もでけんからというて、五重の塔の下の人気のない雪の木かげへきてもらい、そこで燃ゆるような恋心を必死になってうちあけたのじゃと。びっくりしたのは俊海じゃ。「なにをおっしゃいます、おいのさん、わたしはごらんの通りの修行僧、御恩は忘れませんが、あなたのお心にはそうわけにはいきません。おゆるしください。」  といって、すがりつくおいのの手をふりほどいて寺門深くかけこんでしもうたそうな。

死をかけてのおいのの願いが、そんなふうにつめたくはね返されたので、あいかわらずふる雪の中を、よろめくように、おいのは村までかえってきたが、それから二日あとの朝、一通の遺書をのこして、ひょうたん池の青黒い水の底に沈んでいるおいのの姿がみつけだされたんじゃと。遺書には、俊海に対するひとすじの恋に命を絶つということと、先立つ不孝を心からわびてあったそうじゃ。ところが、そんなことがあってから数日後、南都の興福寺にいた俊海が、なんの気なしに猿沢池のとこへおりてきて、ふとみると、池の面にこのあいだみたおいののまんじゅう笠が浮かんでいるので、はっとおどろいたという。そらびっくりするわ。笠をひきよせてみると、笠の裏に「おいの」と書いてあるからまちがいない。一体どうしてここにこんな笠が浮いていたのだろうかと俊海が不審に思っているとき、後からその肩をたたく者がおった。一人娘の切なる恋を、娘にかわってせめて一言だけ俊海に伝えてやりたいという親心から、はるばるやってきた嘉兵衛だった。俊海は、その顔をみると、  「あっ、嘉兵衛さん、おいのさんは」と、聞いた。「はい、あなたを慕って、このあいだ村の池に身を投げて死にました。」  「えっ、それでは、この笠は?」 その笠をみるなり、嘉兵衛もびっくりして「あ、これは、たしかにおいのの笠、どうしてここへ」  と不思議そうにきいた。むかしから村のひょうたん池と奈良の猿沢池とは底の方でつづいている。そのためにひょうたん池の堤に立って、強く足をふむと、下が穴洞になっているのが、つづみをうちならすような音がしたので、村の人たちはそれを「つづみが芝」と呼んでいた。いいつたえの通り、これは地下をうねうねと空洞が通って二つの池をつないでいるものにちがいがない。身投げの折、ひょうたん池に投げこまれた笠が、恋しい俊海への情をこめて、地下を延々とくぐって猿沢池までたどりついたものにちがいないと、俊海も、嘉兵衛も思ったそうな。ひとすじの娘の恋心のいじらしさに、そのまんじゅう笠の話をきいた村の人たちは、いずれも涙を流して同情し、それからのちその池を「おいの池」と呼ぶようになったというこっちゃ。

その池は、高い岸の上にあって、下の吉野川の水面とかなり落差があるにもかかわらず四季いつでも、水がひあがったためしもなく、ふえもせず、へりもせずに水位を保っているが、その池が、猿沢池とつづいているちゅことは、その水位がおんなしやからだということがでけるわけじゃわな。ふしぎな池じゃ。なお、俊海はその後どうなったのかというと、その日から、興福寺から煙のように消え去ってしもうてんと。どこへいったのか、生きているのか、死んでしまったのか、だれも知らないというこっちゃ。今だにわからん。  それで村の人たちは、決して口には出さなかったけれど俊海もまた、おいのをみたときから、おいのの姿が心に刻みこまれていて、そのために姿を消して、きっとどこかで、おいのの後を追って死んでしまっているにちがいないといいあっておったが、もちろんほんとうのことは、なんにもわからん。
 
 

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